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人間科学研究所とは

気配りのできる人を社会を求めている

気配りは「察する」能力

そもそも気配りという能力は、日本人独特の「察する」という能力です。
私たち日本人はもともとこの「察する」という能力に長けている、そんな民族なのです。

「察する」という特徴は、本来私たちの生活の中に大きく残っています。

「気を回す」
「気転が利く」
「気をきかす」
「気を遣う」
という具合に、気が頭にくる言葉はほとんど、この「察する」と基本としています。
また、阿吽の呼吸と言われたり、以心伝心と言われるようなもの、つまり、相手を察して間髪入れずに反応したり、こちらの意識が言葉を使わなくても相手に伝わるなど、これらすべてを「察する」が基本になっています。

私たち日本人の特徴は、このように非常に高度な文化がその根底にある民族なのです。

つまり、1から100まで細かくマニュアルにして説明しなければならない、という民族ではなく、基本的には「黙っていてもわかる」「一を聞いて十を知る」そんな文化なのです。

こういった「察する」能力は、マニュアルで学ぶようなものではありません。
たとえば、子供の頃に、父親が、「タバコ」と言えば、子供は「タバコ」だけを持っていきますが、そこで母親が、「タバコと言えば、マッチと灰皿を持っていかなきゃだめ」と注意します。

また、「お湯飲みをとって」と母親から言われた時、子供は素直にお湯のみだけを持っていきますが、そこどえ母親が「お湯のみと言えば、急須も一緒にもってこなきゃだめだ」と注意します。

これらはすべて同じもので、そのことの繰り返しによって、人はその単純な因果関係を無意識に身につけていきます。

また、単純な因果関係を基本として、この場合であれば「気遣い」といった察する能力も連動して養われていくわけです。

こういったことは知識で知っただけでは決してできるものではありません。

人間が何かできるようになるには、当たり前のことですが、「行動」がすべてです。
実際の行動としてやっていかなければ、無意識的な行動としてできる、ということは絶対にありません。

言葉を全部言葉で指示されなければ何も出来ないという、いわゆる「指示待ち人間」が現在大量に社会に吐き出されていますが、それらの原因は、「言葉に依存してしまう」という習慣がどっぷり身に付いてしまっている、ということです。
「知識を手に入れた」=「自分はできる」
と思考してしまっているので、そのことによって応用能力をどんどん低下させていってしまっているのです。
つまり、「察する」という日本人だけが持ちえる最大の武器が育っていかない、ということになります。

そして当然、単純な因果関係も理解できないわけですので、非常に複雑な人生そのもの、社会そのもの、人間関係そのものの「何が起こるかわからない」という事実に対して対応できるはずもないのです。

仕事という点で考えてみると、指示されなければ何も出来ない人間なので、仕事能率や作業能率が低下して当たり前なのです。

「言われたことしかできない」「言われたことさえ満足にできない」と今日も嘆いている社長さんの声が聞こえてきます。

「察することができない」
では、どうしたらいいか?
そこで、登場したのが、細かいマニュアル化です。
仕事や作業を細かくマニュアル化することが始まります。
どこの会社でも出来るだけ綿密なマニュアルを作成します。

しかし、残念ながらここに落とし穴があります。

「言葉で全てを表現することは出来ない」
のです。
仕事や作業の全てをマニュアル化することはできません。

先ほども申しました通り、仕事や、人間関係、もっと大きく言えば、人生すべては「何が起こるかわからない」のです。
そしていろいろな要素(人との微妙な関係など)が複雑にからみあって成り立っているのが仕事なので、その微妙なニュアンスを言語化し、マニュアル化することは不可能なのです。

すると、マニュアル化の抜けていることろ、また、指示の抜けていることは出来ない、といったことが起こり、余計に全体としての能率や効率が下がるのです。